楽しく自分らしく「ちょっといい未来」を!

楽しく自分らしく
「ちょっといい未来」を!

渡辺整WATANABE TADASHI

13

今回は、ご覧のWEBサイト「らしく」を軌道に乗せるため、日々東奔西走している渡辺さんにお話を伺いました。明るく朗らかで、物腰の柔らかな普段の姿からは想像もできないほど、さまざまな経験を通して自身の内面と闘ってきた渡辺さん。「あるべき自分」ではなく「ありのままの自分」に出会うまでの軌跡を、たっぷり語っていただきました。
インタビュー実施日:2017年7月18日(らしくインタビュアー川上)

■「らしく」を立ち上げ、軌道に乗せることが、私のミッション

――まず、今、担当している仕事とポジションを教えてください。

今は、まさにこの「らしく」の立ち上げ、これを軌道に乗せることが、私のメインの仕事、ミッションです。
ポジションは・・・難しいですね。うちの会社は、異動する部署によって「マネージャー」とか「クリエーター」とか色々な肩書きにコロコロ変わるんですが、今は「上席チーフ」という、初めて管理職になった人が与えられる肩書きの名刺を持っています。

・・・けど、自分の中では肩書は、結構、無視しています(笑)。

――今の会社に入社してどれくらいですか?

もう少しで4年目が終わります。

この会社に入社してから最初の2年間は、東京都心で営業をやっていて、その後は1年間、新商品開発部にいました。研修の新作をつくる部署ですね。
その後、公開講座、すなわちオープンセミナーの部署に異動して、公開講座部の中で、新しい研修サービスの商品を作るという仕事を4か月くらいやっていました。席は公開講座部のオフィスにあって、でも、やることは引き続き、新作を作るという感じでしたね。その後、今年2017年の1月から本社のWEBチームに席が移りました。

でも、私の場合、異動したから仕事がごろっと変わるっていうよりは、それまでやっていた仕事は引き続き担当しながら、「次に異動する新しい部署でやったら、どんな効果が出るだろう? 試してみよう!」っていう感じで異動することが多いかなって気がします。
もちろん、異動した先でやらなきゃいけないTo Doは追加されますけどね。

――常に、前の仕事の延長線上、みたいな感じですか?

そうですね。特にここ数年は専属で新しいサービスづくりをやってきたんですが、今はWEBチームに来て、それをどうホームページで紹介していくか、そのプロモーションをメインにやってみよう、っていう感じで働いています。あとは、この新しい事業である「らしく」の立ち上げですね。

■LGBTに特化したサービスとしてスタートした「らしく」

――「らしく」は、新規のサービスですが、アイディアや企画は、どうやって生まれたんですか?

話は遡りますが、私がかつて所属していた新商品開発部は「ダイバーシティ営業部」でもあったんですね。それは、当時、2015年あたりですが、世の中的にも社内的にも、新商品は女性活躍や障害者差別解消法、LGBT、外国人といった、ダイバーシティに関連する内容が多くて、そういった研修を作ることが多かったからなんです。

その時、私は当事者としてLGBT研修を作ったんですが、「見えないマイノリティって、実は世の中にいっぱいいるよね」「それって、どうやったら見える化できるかな」「どんなサポートや理解が必要なんだろうね」などと考えていたんです。その時のビジネスアイディアが、今の「らしく」の原点です。

最初は「らしく」ってLGBTに特化したサービスだったんですよ。「社内でカミングアウトしていることを、社外に発信しませんか?」あるいは「『私、LGBTとか別に気にしないですよ』『サポートしますよ』っていうアライ(=ally。同盟、支援を意味する英語が語源)と呼ばれる存在がいるなら、そのことを社内外に発信しませんか?」っていう切り口のサービスがあったら面白いんじゃないか、なんてことを社長と話していたんですね。
それなら「鉄道オタク」っていうのもマイノリティだよな、とか、他にも色々な少数派っているよな、っていう話になって、「ある意味、皆、マイノリティじゃん!」「確かに!」って盛り上がっていったんです。

皆、マイノリティなら、色んな人にインタビューをして、それをまとめて発信することで、それを読む人にとって「自分にもそういう『居場所』ってあるのかなぁ」って希望を持てる何かになったらいいよね、って感じで始まりました。

それが、今年2017年の3月くらいに、もっと具体的に「インタビューサービスにしていこう」っていう方針を社長が打ち出してくれて、今にいたる・・・っていう感じですね。話し合いとディスカッションを繰り返す中から、なんとなくカタチになっていった気がします。

――渡辺さんの他に、専属で「らしく」に関わっている方は?

今、専属は私1人です。

私はアイディアのタネは持っていても、WEBサイトを作ったり、デザインしたりという、カタチにするスキルはないんです。だから、私が考えたことを、誰に頼んだらカタチにしてくれるか考えて、部内で相談して、調整してもらって、スキルを持った人に周りに集まってもらって、サービスの実現化を目指していくという感じですね。

システムの専門部隊の人にも教えてもらって、営業部のメンバーにもお客さんを紹介してもらって、こういう新しいサービスを考えるのが好きな仲間に意見をもらって・・・そうやって今、作り始めているところです。

■「とりあえず、ワイン飲みながら、皆で語り合いましょう」っていう店をやっていた

――インタビューサイト、インタビューサービスというと、誰かの話を聴いて、それを文字にして、世の中の人に読ませる・・・っていうお仕事ですが、これまでに、そういった種類の仕事に関わってきたことはあるのでしょうか?

ないんですけど・・・(笑)。ただ、インソースに入る前に、実は私、一年半、個人事業主としてレストランカフェをやっていたんです。

――お店を経営していたということですよね?

そうです。脱サラして、最初は友達と2人でレストランを開いたんですよ。友達がシェフで、私がウェイター、みたいな感じで。ただ、1年くらいしたら、その友達が、「結婚とか考えると不安」って、いう言葉を残して去っちゃったんです。まぁ、しごく当たり前のことなんですけど。

私、店で独りぼっちになっちゃって、「どうしよう、私、料理できないし、売れるものがない!」ってなった時に、必死で色々と考えていたんですね。もともと人と話すのが好きだし、人の話を聴くのも好きだったので、お店を「なんとなく一緒に飲みましょう」みたいな雰囲気にしたんです。そうしたら、話したい人が集まるようになっていった。それで、「とりあえず、ワイン飲みながら、皆で語り合いましょう」っていう店になったんですね。

――渡辺さんは、聞き役に徹して?

はい。聞き役に徹して、悩み聞いたり、夢を聞いたり。たまに自分のことを少し語ったりして。

そんな中で、「毎週違う人を呼んできて、渡辺と一緒に語るのを聞きながら、お客さんには飲んでもらおうか」という企画を考えたことがありました。実際に、ちょっと話してくれそうな人に声をかけたりもして。「パネルディスカッションしませんか?」って。

――トークカフェみたいな感じですよね。

そうですね。結局のところ、トークカフェにしようと思った企画は、すべて、ライブイベントになりました。私がピアノで伴奏して、歌う人が何人か来てくれて。ライブを楽しみながら、お酒を飲んでもらう、っていうイベントは何回かやりました。

今の仕事に直接はつながっていないですし、その時は自分の趣味の範囲でしたけど、「あの頃、そんなことを考えていたな」って、「らしく」を始めた時に、思い出しました。

■「社内を乱す人としてブラックリストに載っていました(笑)」

――今の会社に入って、最初は営業部に配属、ということでしたが、当時もお客様のお話をよく聴く営業さんだったのですか?

入社するときに、社長との面接で「営業未経験なので不安です。できるでしょうか」って訊いたら、「ずっとサービス業やってきたってことは、君、人、好きやろ」って訊き返されたんですね。
で、「人、好きです」って言ったら、「じゃぁ、大丈夫だよ。やっていける」って言われたんです。「本当に?」と思いながらも、「まぁ、そう言ってもらったんなら、やってみようか」って、名刺を持って、営業するようになったんですけど、1か月くらいしてからかな、「私はとにかくお客さんの話を聴けばいいんだ。売り込む必要はないんだ」って分かったんですね。そこから、パァーって「営業って楽しいな」って思うようになったんです。

いくつか質問をして、お客さんにダーッと喋ってもらった内容を聴いて、「あ、貴社の課題見つけました!」って感じで。「こういうソリューション、どうですか?」って紹介するだけ。営業はそんな感じでしたね。

「人って喋りたいんだな」っていうのもすごく分かったので、「どうしたら相手に喋ってもらえるだろう」と考えて、営業していた気がします。

――営業って、本当に「聴く」のが大事ですよね。

そうですね。逆に言えば、色々と話を聴きすぎていた部分もあって。

営業は2年間やっていたんですが、最後の頃は、社内では「あいつは好き勝手売ってくるぞ!」ということで、社内を乱す人としてブラックリストに載っていましたね(笑)。一時期は上司がすべての訪問に監視役としてついてきて、私が変な提案をしているんじゃないかって、チェックされた時期もありました。「監視するぞ」って言われたわけではないですけど、当時のあれは、絶対に「監視」だったと思います(笑)。

――監視(笑)。

打ち合わせで、お客さんにいっぱい喋ってもらって、私も、「こういうことできたら、いいですよね。私、できる気がします」って提案して、その場で図にして、ソリューションの方向性をすり合わせて、「では、見積もりをお送りしますね」って約束して、商談を終える。帰り道で上司に、「私、別に変なこと言っていないですよね」って確認してもらうような状況が何度かありましたね。上司も「おう、せやな」って。あ、関西出身の上司だったので(笑)。

でも、社内からすれば、商品ラインナップにないものを好き勝手提案してきて、「こういう商品があったらいいと思うし、事実、売れたんです」って言われたら、そりゃ色々と乱れますよね。結果的に、当時は叱られることも多かったです。

■異動がなければ、辞めていた。「転職活動も始めていました(笑)」

――叱られた時、渡辺さんは、どう思ったんですか?

正直、どうしていいかわからなくなっちゃいました。私はお客さんの話を素直に聴き出しているわけで、それを整理した状態で、私の頭の中でちゃんとロジックの通ったソリューションを考えて、リスクも洗い出したうえで提案しているわけです。それにお金を出してくれるっていうお客さんがいるのに、会社の既存の枠組みの範疇での提案ではないから、「勝手なことするな」「そんな商品は売っちゃだめだ」って社内の反対というか、叱りを受ける。

私からすると、「え? 嘘でしょ? 売れるのに? 新しい商品を作るチャンスなのに? 儲けたいんじゃないの?」って。完全にやさぐれていましたね。斜に構えて、「意味がわからない」「マジ、ナンセンス」って堂々と愚痴っていました。

本気で「どうしたらいいか分からないな」って悩みが深くなっていった時、社長から辞令があって、「新商品開発部っていう部署を作るから、そこで活動しなさい」って言われたんです。それまでの方針とは180度変わって、社長から「好きなように研修を開発していい」って言われて。ちゃんとポジションももらって。戸惑いましたけど、嬉しかったですね。

あの時の異動がなかったら、辞めていました。実際に、転職活動も始めていました(笑)。

新商品開発部を経て、今でも新作として研修サービスを作っていますが、営業していた頃にお客様との会話の中で思いついて温めていたアイディアを、今、正式な商品として作り上げて、正式なルートで世の中に送り出しているものも実は多いんですよ。当時のノートを見返しながら、「でかした、2年前の自分!」っていう自己満足的な感覚は大いにあります。

■人のために尽くしている自分が好き。そのためだったら頑張れる

――また、さらに遡りますが、これまで、どんな職歴だったんですか?

大学卒業して、2年間、ホテル業界にいました。ずっと現場にいたんですけど、入社時は、ホテルの親会社的な新しい組織に、幹部候補2期生として雇ってもらったんです。確か、9年間、現場で経験を積んで、その後、経営などを任せる幹部として活躍してもらう、みたいなキャリアパスでした。

私はもともとブランディングとかプロデュースをしたくて入社したんですけど、2年くらいしたら急きょ方針が変わって、その幹部候補として所属していた会社がなくなっちゃったんですよ。「たたみます」って感じで。「皆さんには現場でキャリアを積んでもらいます」みたいなことを言われて。その説明の仕方が納得いかなかったのと、そもそもずっと現場で働く気はさらさらなかったので、「あれ、これは話が違うぞ」って思って退社しました。

ホテルの2年間は、フロントを1年、ベルボーイを半年、コンシェルジュを半年、やっていました。その経験を活かして、新卒3年目で転職した会社は、マンションコンシェルジュの専門会社で、最初からマネージャーとして雇ってもらいました。

――ごめんなさい、マンションコンシェルジュってどんなお仕事ですか?

いわゆる高級なマンションの受付というか、ひらたく言うとすごいレベルの管理人さんみたいな感じなんですけど・・・。ホテルライクなレジデンスの1階にいる、「なんでもやってくれる人」っていう存在、それがマンションコンシェルジュです。

――色々とお手伝いしてくれるような存在? ホテルのフロントの人みたいな方が、マンションにもいてくれるんですね。

そうですそうです。住んでいるのは富裕層のお客さまが多かったんですけど、宅配便やタクシーを手配したり、クリーニングを預かったり、お店を予約したり。その他にも、本当に多岐にわたって困りごとを聞いたり・・・。一番「すごいな」って思ったのは「ヘリコプターをチャーターしてほしい」っていうお客さまからのご要望があったことですね(笑)。そこに4年間勤めて、28歳の時に、先ほど話した脱サラして、お店を出しました。

――人に関わる、人に奉仕するという表現でいいでしょうか、そういう職業に就くことが、渡辺さんの「らしさ」なのかしら。

人のために尽くしている自分が好きだから、そのためだったら頑張れる、っていうのはありますね。

――ぶれてないですね。

小さいころから、あまりぶれていない、というか、性格とか考え方とかは変わっていないですね。

■皆がつまずかないところでいちいち立ち止まる自分に、危うさを感じていた

――小さい頃はどんな子でしたか?

・・・浮いてました(笑)。良くも悪くも、周りとは少し違う、浮いている、目立つタイプだったと思います。

小さい頃、2~3歳の頃に「ピアノ、習いたい」って言ったらしいんですね。家にピアノがあったので、歌とか音楽とかが好きで、ピアノも弾けるようになりたかったんですよね。近所の男の子たちが虫集めたり、野球を始めたりする頃に、そういうのは全然興味がなくて、家で本を読んだりピアノを弾いたりして、おとなしくしているタイプでしたね。近所の人たちからは「男の子なのに」って、よく言われていました。幼稚園に行っても、皆がかけっこしている中で、一人で園庭で本を読んでいたことも覚えていますね。

それでも、幼稚園の運動会で、園児を代表してスピーチするっていう役にはちゃんと選ばれる、っていうか。スポーツでは目立たないのに、そういうところでは目立つ、みたいな子だったと思います。

小学校に入ってからも、ほんの少しだけ、他の子とは違うことをしていました。毎朝、教室で合唱する時間があったんですけど、確か1年目からオルガンを弾いて、伴奏をしちゃう子でしたね、自ら手を挙げて。あとは学級委員とか学年委員とかもやっていましたね。成績も優秀だった記憶があります。

――浮いている、っていうよりも、優等生って感じなのでは?

優等生・・・なんですけど、浮いているって感じでした。運動以外は、成績はすごく良かったです。勉強も好きでしたし、実際できましたね。でも、運動は全然ダメで。

鉄棒なんて「なんで、棒でぐるぐる回る必要があるの?」「これって何かの役に立つの?」って思っていましたし、跳び箱を飛ぶ理由もわからない。皆が喜んで参加するドッジボールも、「先生! どうして普段は人に物を投げちゃいけないっていうのに、ボールを投げて当てろって言うんですか?」って訊いちゃうような子でした。

――理由がないと納得できないタイプだったんですね。

そうですね。特に、やりたくないことには(笑)。 「なんで?」って何事にでもつまずいちゃうタイプでしたね。だから、ちょっとしたところで、皆がつまずかないところでいちいち立ち止まる自分は、どこか危ないなって感じていました。

3年生の時に、すごく真面目だったんですけど、ある日、ちょっとしたことで、給食の時間にブチってキレちゃったことがあるんです。お鍋とかひっくり返して、ワンワン泣いちゃって。ヒステリーですね。

――なにか、色々とため込んでいたのかしら?

そうですね、ため込んでいたんでしょうね。ヒステリーみたいになっちゃった後、皆、びっくりして、「先生、呼んでくる!」みたいな感じで教室を出て行く子もいたりして。先生が来て「どうしたの!」みたいになって、皆、オロオロしている中、お味噌汁が洋服についているのに気づきながら、「ああ、なんか、やっちゃった」って涙流しながら冷めている自分がいたのを覚えています。

自分で自分をコントロールしにくいな、って思った感覚を覚えています。

■アメリカに行って、「完璧なんてないんだな」と分かった

――年を重ねるにつれて、自分をコントロールできるというか、うまく付き合えるようになったんですか?

小学校5年生の時に、父親の転勤で、アメリカに行ったんですよ。アメリカのミシガン州に。

やっぱり癇癪というか、どうしていいかわからないとパニックになって泣いちゃう、っていうのは変わらなかったんですけど、言葉も通じない世界で、親も苦労しているわけですよね。私が泣く度に親が呼び出されて、学校に迎えに来てくれるんですけど、「この状況ってよくないな」「これってどうしようもないな」と思って、ちょっとずつ「自分が変わらないといけないな」って分かってきたんでしょうね。アメリカで環境が変わって、自分も変わりました。

あと、「完璧なんてないんだな」っていうのが分かったんでしょうね。

――それまでは、完璧にしたかったんですね。

完璧主義でしたね。完璧にしたかったんです。

――そうじゃなくてもいいんだ、って悟ったんでしょうか。割り切り、というか。

そうですね。アメリカで過ごした3年間で性格が変わって、小学校の時は「100点取って当たり前!」だったのが、アメリカから戻ってくる頃には「70点取れれば、十分じゃな~い?」っていう感じになっていて。「手を抜く」っていうことが海外に行って身につきましたね。

――良かったですね!

良かったですよね(笑)。親もすごい楽になったんじゃないかな、って思いますね。小さい頃は、色々と考えすぎて、完璧主義すぎたんでしょうね。

――3年間、アメリカにいて、なんとなく自分との折り合いがつくようになって。帰国後はどうなったんでしょう?日本に帰ってきて、ギャップに悩むようなことはなかったんですか?

日本に戻ってきて、中学2年生の夏から、私立の男子校に編入しました。

帰国子女が沢山いる学校に入ったんですけど、なんだろうな、地味なんだけど、なんか浮いている子、みたいな自意識でした。なんなんでしょうね(笑)。

ポジションみたいな話で言うと、いわゆる裏でタバコ吸っちゃっている子みたいな人とも仲良かったし、スポーツやっている人とも普通に仲良かったし、アニメ大好きな友達も周りにいたし、一方ではガリ勉のタイプとも仲良くしていたし。誰とでも仲良かったけど、なんか自分の中では、浮いている感じがありました。

――私自身も学生時代にそういうところがあったので、なんとなく分かります。親友はいるけれど、クラスのどのグループともつながりがあるような立ち位置でした。そういうタイプの人っているんですね。

小学校の頃みたいに学級委員とかはもうやらなくて、でも皆が少し仲間外れにしているような子からも「渡辺くーん」って慕われたりもして、それが一時期、結構、プレッシャーで、悩んだりもしていましたけど・・・。なんか不思議な感じでしたね。

あとは、先生泣かせちゃったりとか(笑)。

――え?

■何事もユーモアに変えて、見逃してもらうスキルが身についた

先生がつまんない授業をずっとしてて。私は見た目が真面目なので、「渡辺、お前もさぼっているのか」って指されたんですよね。私、さぼっている気は全然なくて、でも確かに授業と関係ないことをして時間を有効活用していたんです。それで「先生の授業は聞く価値がありません」「先生が面白い授業してくれたら聞きます」みたいなことを言っちゃったんですよね。で、校長室に呼ひ出されました(笑)。

男子校だし、そういうの皆、好きなんですよ。「おいおい、あいつ泣かせたぞ」みたいな。

――えー!そんなこともあったんですね。

でも、その時、「ああ、僕はとってもドライだな」って思いました。先生を泣かせた、って騒いでいる同級生を横目で見ながら、「先生の給与は、私たちの親から支払われる授業料から出ているわけでしょ? じゃ、サービスを提供するべきでしょ? 価値がないって私たちが思っていて、授業を誰も聞いていないっていうのは、そもそもダメでしょう? この状況ってナンセンスでしょう?」って思っていましたね。

嫌なやつですよね(笑)。

――ロジックがすごいですね。

他にも、「なんで、卒業するために、赤点にならないように勉強する必要があるんだろう」っていうことがわからなかったので、高校の数学の先生に、「赤点取って留年になっちゃうのは困るので、答えを教えてください」ってお願いして、赤点ギリギリにならないくらいのテストの答えを教えてもらって、テストに臨んでました。あはは(笑)。

――それって大丈夫なんですか?……大丈夫じゃないですよね?(笑)

いや、分からないんですけど、もう時効ってことで話してもいいですよね?(笑)

「私、大学受験は多分、受かります。でも、大学受かったのに、テストで赤点取って、高校を卒業できなくなっちゃって、もしそれで私が浪人しちゃったら、その責任を先生は持ってくれるんですか?」っていうのを言っちゃったりしていましたね。

そんな感じだったので、「どこからその自信は来るんだ?」ってよく訊かれていました。3者面談で、母親と先生と進路の話をするような場でも、「お前は頑張れば東大に行けるだろうから、頑張ってみろよ」って先生に言われたけれど、私は「東大に受かっても、私は行く気がないんで、頑張りません」みたいな(笑)。
母親も苦笑いでしたけどね。先生と母親に「受かってから言いなさい」って言われて、「あー、そりゃ、もっともだな」って思いました。我ながら、ひどいですよね(笑)。

でも、アメリカから帰ってきてから、何事もユーモアに変えて、見逃してもらう、っていうスキルが身についた気がします。

――何事もユーモアに変えて、見逃してもらう! それってすごいスキルですね。

ベースにある考えとして、「意味がないことはしない」「したくないことはしない」っていうのは、当時からハッキリしていましたね。よく「大人になってから後悔するぞ」って言われてましたけど、「大人になって、後悔したら、その時に考えるから大丈夫です〜」って言い返していて、「お前は本当に、ああ言えばこう言うな~」って呆れられていましたね。

■ロジックだけだと人はついてこないし、感情だけだとナメられる

――物腰が柔らかいから、そういう印象を持たなかったですけど、実は結構・・・。

性格はきつい、と思います。

――(笑)。今も、そういうところがあるんですか?

あると思いますね。

先ほどのマンションコンシェルジュ時代の話ですけど、マネージャーとして雇ってもらって、部下は45人くらいいたんです。面接して、条件や相性が合う方に入社してもらって、育成して、色々なマンションの現場に、それぞれに所属してもらって、私はそれを管理する立場でした。

仕事に対しては、厳しかったと思います。業務も人もマネジメントする中で、ストイックに色々と考えていました。

ロジックだけだと人はついてこないし、感情だけだとナメられる。というか、甘えが生まれてしまう。だから、「感じ良くはするけど、絶対的にこれは仕事だから、ちゃんとやってね」っていう厳しさとプロ意識は持とうって思っていました。そういう時に、もともと持っていたロジカルさっていうのは役に立っていましたね。

でも、ロジックだけだと、嫌われるじゃないですか。だから、意識して笑顔でにこにこしつつ、でも、できないことはできないって言いつつ・・・。20代の頃はそういうバランスを取りたくて意識していたけれど、うまくできなかったので、苦労していましたね。

「渡辺課長って、すごく冷たい人」っていう部下もいましたし、「渡辺課長って、すごく優しい」っていう部下もいました。「そういう正反対の評価がされるってことは、うまく振る舞えていないな、隠しきれていないな」って思っていましたね。

――「隠しきれていない」っていうことになってしまう?

なんでしょう、人によって印象が違うってことは、うまくバランス取れていないんじゃないかな、とか、キャラクターを浸透させることができていないんじゃないかな、とか、思っていました。論理と感情のバランスの取れた上司になりたかったんですよね。ははは、懐かしいですね(笑)。

■「自分が楽しめるか」という前提が昔以上に大事

――今も仕事をするうえでは、論理と感情のバランス感覚を持ってやっていますか?

持ってますね・・・。でも、全然違う切り口で「楽しいことが好き」っていうのが、昔よりも明確になりました。そもそもロジックだけじゃ自分自身も動けないし。前提で「自分が楽しめるか」っていうのが昔以上に大事になりました。

「楽しもう」っていう思いが先にあって、その中で「やるの?やらないの?」とか、「できる?できない?」とか、「どういう条件だったらできるの?」「いつまでだったらできるの?」っていうロジカルな判断をきっちりしていきたいっていう気持ちは、ありますね。

――さっきのお話しの中で、「何のためにやるのか」「意味があるのか」考えてしまう性格だとおっしゃっていましたが、仕事をしていく上でも、そこはきちんと押さえていますか?

そうですね。「考えなくていいから、やれよ」とか「とにかくやってみろよ」とか言う人の指示とか、意義や意味が分からない人の言うことには一切従わなかったです。言われたことに対して、自分で意義を見出したり、つくりだしたりするのは、うまい方だと思うんですよね。これは新卒1年目の頃から意識していました。
それでも、どう考えても意義や意味がない指示をする上司とか偉い人の言うことは、納得できなければ頑として絶対に動けなかったですね。

だから、3年目で転職して、一気に部下ができた時も「こういうことをしたいから、あなたには、これをお願いしてもいいですか?」って、ちゃんと意義を伝えようということは明確にしていました。そうじゃないと、人は動いてくれない、って。

だから今も気をつけるし、意味なく指示する人はすごく嫌です。

例えばですが、「新人なんだから、いいから、手を動かして」って言う人に対しては、「そう言ってるお前が手を動かせよ」とか思っちゃう(笑)。「そんなんじゃ人はついてこねーぞ」って、すごく思っています。当時は同僚のマネージャー陣に対して、そういう冷たい目を向けていましたね。ふふふ(笑)。

――自分のそういう姿を見て、部下とか後輩とかには学んでほしいっていう気持ちもありますか? あるいは、もしかしたら同僚のマネージャー陣にも?

うーん・・・。その人が意義なく動ける人だったら、それはそれでいいと思うんです。

■仕事への熱さは、舞台をやっていた頃とリンクする

話が飛ぶようですが、大学時代の4年間、ずっと舞台をやっていたんです。舞台って、すべての人の作業が最終的には「本番」につながります。無駄な動きはひとつもなくて、舞台を作る大道具さんも、作曲さんも、脚本家さんも、照明さんも、もちろん、役者さんも、色々な準備をしていくわけですけど、全部、本番につながるんです。そういう「最後には、これにつながるから、大変だけど頑張ろう」っていう団結感が好きですね。「お客さんにいいもの見せよう」とか。だから今も、そうやってゴールとか目的、目標を持つことを、とっても大事にしています。

それに、舞台って、本番が終わると打ち上げが絶対にあるんです。私、打ち上げが大好きなんですよ! だから、仕事でも同じ感覚で、プロジェクトごとに打ち上げたいんですね。意義なく淡々と仕事をできる人って、羨ましいな~って思うけど、私はそういうタイプじゃないから、「一緒に目標を目指していい仕事をして、終わったら一緒に打ち上げて、ねぎらい合おうよ」っていう思いが、働くことのベースにあります。だからこそ、意義はちゃんと伝えて共有したいし、たとえ任せる仕事が単純な作業だったとしても、「これって、最終的にお客さんの満足につながるよ」とか、「少なくとも、私はあなたがこれをやってくれて嬉しいです」などとちゃんと伝えて、ロジカルではないかもしれないけれど、そういう「熱い情」みたいなもので周りの人には働いてほしいなって思います。

――なるほどねー! 私も好きですけど、「舞台」って本当にそうですよね! 舞台に対して考えることは、そのまま仕事に当てはまるなと私も思います。目立つ人は限られていますが、裏方さんがいないと成立しない、本当に「総合的」なものですよね。

アカデミー賞の授賞式を見ていると、主演賞などを取った俳優って、壇上で必ず、家族や友人、スタッフなど周りの人に感謝を述べますよね。私、あれ、すごく好きなんですね。

私は、今の会社では、朝礼などで全社的に「今回、私はこういうことをやりました」と発表する機会が多い方だと思うんです。そうやって目立つところにいたいし、自分が楽しく仕事していることを発信したいって思っているんですけど、そういう時にもさりげなく「これは、2年目の〇〇さんが支援して、カタチにしてくれました」って、ちゃんと言おうと意識しています。逆に「渡辺さんが全部手柄を持っていったよ~」って思われるのは嫌です。

――それは素敵ですね。

もし、私が手伝った立場だったら、「あ、私のことを言ってくれた」って嬉しくなるだろうと思うんです。そして「また、渡辺さんと仕事をしよう」って思うはず(笑)。

学生時代の舞台の打ち上げの時も、よく皆への感謝の気持ちが伝わるようなスピーチをしていたんですけど、舞台をやっていた頃の熱さみたいなものと、今、仕事に対して持っている熱さみたいなものはリンクしているかなって思います。

■ミュージカルを見て「こんな世界があるなら、まだ生きていける!」と思った

――舞台は、どういうきっかけで興味を持って、自分でもやることになったんですか?

舞台と言ってもミュージカル専門だったんですが、アメリカに行った時に、もちろん英語は喋れないし、文化も全然違うし、毎日しくしく泣いていたんですね。日本では優等生で学級委員とか任されるような子だったのに、アメリカの学校では「なんで、この子は英語ができないの? オー、プア、ベイビー!」とか言われて(笑)。

――それはきつい(笑)。

「ベイビーじゃないのに!」って! すごく辛かったんですよね。両親もかなり苦労していて、父親はずいぶんタバコを吸っていたし、母親はおじいちゃん・おばあちゃんに国際電話で愚痴ったり嘆いていたりもしていたし。妹はすぐ現地に馴染んでいましたけどね。

そういう状況で、両親が息抜きみたいに、「ニューヨークでミュージカルを見よう」とブロードウェイに連れて行ってくれて、当時、開幕したばかりだった『美女と野獣』を見たんです。それで、ものすごく衝撃を受けて、「こんな世界があるんだったら、僕はまだ生きていける!」って思ったんですよね。言葉も全然分からないのに、感動したんです。「すごい!!」って。

そこから、10代はずっと「舞台に立つことが将来の仕事だ」と思っていましたね。「言葉も越えて、私はあっち側、つまり舞台の上に立つ人間になって、感動を与えられる人になりたい」って思っていました。

――それで、演劇部に入ったり、お芝居の勉強をしたりはしなかったんですか?

いや、中2で日本に帰ってきたら、学校に演劇部やミュージカル部などはなかったんですよね。それに、舞台で活躍している人には、東京藝術大学の出身者もいることを知って、国立大学に進学できる頭脳がなくちゃいけないんだ、とか、家が相当に裕福じゃないと難しいらしい、とか、調べていく中で分かってきて。進学校だったってこともあって、なんとなく「そっちの道に進むのは難しいんだろうな」っていう感じになっていったんですよね。

でも、「芸能人になったら舞台に立てるかな」と思ったこともあって、歌声を録音したデモテープを、レコード会社に送ったこともありました。歌手になれないかな、って(笑)。夏休み前の学校帰りに音楽事務所のポストに投函したこともあって、次の日、「夏休み明けたら、僕、芸能人かも」とか同級生に話してて。でも、夏休みが終わっても普通に登校していたので「あれ、お前、芸能人になるんじゃなかったの?」「あ、ま、まあね。芸能人にはなれなかったよね・・・」みたいな感じでした(苦笑)。

――芸能人から舞台人に、って考えていたんですね! それで舞台については、大学に入ってから、夢をかなえたんですね。

そうですね。通っていた大学のミュージカルサークルと、他の大学のインカレサークルにも所属していて、作曲したり、脚本書いたり、役者やったり、色々なことをやっていました。

――すごいマルチ!

色々やりたくて、やっていましたね(笑)。でも、その時に、一緒にやっていた仲間の中から、その後、劇団や舞台関係に進んだ人がいるんですけど、そういう人たちを見て、「才能ってこういうことか!」って圧倒されたんですよ。自分との違いを思い知らされたというか。「こんなに才能があって、さらに努力できる人っているんだ」「華を持っている人っているんだ」と思い知らされて、挫折っていうほど大きくはなかったけど、薄々「私はプロの世界に行ける人間じゃないんだな」っていうのを悟っていきましたね。

――ああー、そういうのって、分かっちゃいますよね。

残酷だけど、そっちの世界に行けるだけ恵まれた何かがあるわけではないし、このルックスだし(苦笑)。さらに過酷なトレーニングに耐えられる精神力も持っていないし・・・って諦め始めて。それだったら、一般人として、普通の生活を送る中で、たまにライブとか自主的にやって、「渡辺、歌、うまいじゃん」とか言われている方が幸せなんだろうなって、折り合いをつけていきましたね。

テレビとか舞台とかの世界で活躍している友達は今もいますけど、やっぱり敵わないなって思います。

――そういう、自分を客観的に見られる目っていうのも、きちんと持っていらっしゃるんですね。

■常に自分のことを右斜め上の空から見ている感じ

自分を客観的に見ようっていう意識は、昔から強い方だったと思います。
小さい頃から、よく「男の子なのに」とか、「お兄ちゃんなのに」とか、「いいところの育ちなんだから」とか、色々と言われることが多かったように思うんです。自分も敏感だったという

だから、私の前につく説明文を考えてから行動する、っていうのが当たり前にありました。「真面目な渡辺くんは、どういう振る舞いをするんだろう」「優等生である僕は、どういう発言をするべきなんだろう」と、すごく考えていました。だから多分、そういうところがきっかけで思い詰めて、ヒステリーとか起こしていたんだろうと思うんですけど(笑)。中学、高校、大学に行ってからも、そうやって客観的に見るクセは抜けなくて。

いつだって客観的に見ることができていたわけでもないし、すべての選択肢を正しく取捨してこられたわけではないけれども、常に自分のことを右斜め上の空から見ている感じっていうのが、すごく自分らしいと思いますね。そういう客観視は自分の強みだと思っています。今の仕事でもそうだし、サービス業にいた時もそうでした。

例えばホテルに勤めていた頃は、お客様が見ている世界、お客様の視界の中での「いいホテルマン」を演じるためには、どういう動きをして、どういう表情をして、どういう声で話せばいいんだろう……お客さんが主役なら、どんな脇役を演じるべきなんだろう……って、常に考えていました。今でも同じように「いい上司」とは、どういう人だろう、ということも、どこかで冷静に考えていますね。

■個人事業主になった理由のひとつは「うつ」。すべてが虚しかった

――求められる役割を演じていて、きついとか、辛くなることはなかったですか? 楽と言えば楽でしょうけど、モヤモヤしたものが残りませんか?

そうですね。前の会社を辞めて、個人事業主になった理由のひとつは、「うつ」になったことなんですけど・・・。

マネージャーとしての私と、25~26歳の素の私とのかい離みたいなものに、すごく悩んだ時期がありましたね。全部わかっているんですよ。「組織人として、こういうことをやらなきゃいけない」って頭では理解している。でも、心がついていかなくなっちゃったんですよね。
自分が演じているのか、本音なのか、自分すら騙している感覚になっちゃって、わけがわからなくなって。そんな時に忙しさも相まって、疲れ切ってしまったっていうことは、何度かありましたね。

――期待される役割と、本当の気持ちがずれると辛いですよね。

ずれるから、困りますよね(笑)。うまく表現できないんですけど、当時は「デジャヴ」みたいな感じのオンパレードでした。寝ている夢の中でずっと問題や課題を考えてしまって、すべてシミュレーションしちゃうんですよ。

私がこう言ったら、誰がどういう反応をして、それを踏まえて、こういうことが起きて・・・って、想像できちゃうんですよね。それで、次の日、寝不足で会社に行くと、すべて考えたとおりに物事が進んでいくんです。「あれ、これ、夢の中で全部こなしたぞ」って思いながら、機械的に笑顔を作って、言葉を発して。そんな中で、心を失っていく感覚につながっていっちゃったんですよね。辛かった・・・っていうか、すべてが虚しかった・・・っていう日々でしたね。

――なんだか、すごく分かります。辛いですよね。

分かります?(笑)今だから笑って話せますけどね。でも、今でも、たまに夢と現実がわからなくなることはあって、トイレに行くと、「夢じゃないよな」って確かめるために舌を噛むクセがあります。

■会社向かう途中、有楽町の駅のホームで、息苦しさと涙が止まらなかった

――うつから復帰した人でも、再燃の不安などの課題があると思うんですが、どういう対策をしているんですか?

私の場合は、すごい重いうつ病で寝込んじゃった・・・っていうほど深刻ではなかったので、すぐに休んで、また少しして復帰したっていう感じでしたね。

「おかしいぞ、自分」って気づき始めた時に、割と早い段階で、「心療内科に行こう!」って思えたのは良かったです。幼い頃、アメリカにいて、カウンセラーという存在が当たり前にいる世界を知っていたのは良かったですね。心療内科を受診することに抵抗がなかったんです。

ただただ毎日忙しくて。当時、責任のある仕事を任されてはいたんですけど、サービス業のマネージャー職っていうことで、24時間稼働している現場から、たとえ夜中の3時でも携帯電話に連絡が入って、判断や対応を迫られる日々で、だんだん、ひっ迫していっちゃったんですよね。朝も早くから現場行かなくちゃいけなかったりして、寝不足も続いて。

ストレスとともにお酒の量も増えていっちゃって、ある日、ハッと目が覚めたら、一人暮らしの部屋の床で、ウイスキーのボトルと、髪を染めるヘアダイのボトルと一緒に横になっていたんです。で、「やばい! 遅刻だ!」って思って、すぐに会社に向かったんですけど、髪の毛はオレンジ色になっちゃってて、皆、びっくりしてて。「すみません! 今日、すぐに黒く直します!」とか言って、笑ってごまかして。
その日の夜、今度は、黒く染めながら、また床で記憶失っちゃって、気づいたら顔も手も、床もシャツも黒く染まっちゃってて。会社向かう途中、有楽町の駅のホームにうずくまって、息苦しさと涙が止まらなかった。その日は出勤しても、すぐに逃げるように早退して、実家に帰ったんですね。

顔も手も黒くなった26歳の息子がワンワン泣いて、「おかしくなっちゃった!」って騒いでも、母親は「疲れたんだね」「辛かったね」と言って、泣きじゃくる背中をさすってくれたんです。すごいなって思ったし、ありがたかったです。
私はちゃんと行くべき場所が分かっていたので、ちゃんと心療内科に行って、2週間休んで、というのが、最初にうつになった時のエピソードですね。

――そうだったんですね・・・。

でも、笑っちゃうというか、これは大変な事態だって思ったんですけど、最初に心療内科に行った時、その病院の受付で「一か月先まで予約でいっぱいです」って言われたんです。「え? 一か月、このまま、我慢するの!?」って一瞬、絶望というか、パニックになりました。すぐに冷静になって、違う街の病院に行ったんですけどね。そういう現実があるんですよね。

別の病院で、ちゃんとすぐ受診できて、お医者さんに状況を話したら、「まずは、ちゃんと寝ましょう」って言われて、睡眠薬を処方してもらいました。「うつっていうのはね」って優しく説明してくれて、最後に診断書も書いてくれて、「会社は、とりあえず2週間、お休みしましょう」って言われたんですね。そのまま会社に行って、事情を話したら、「せめて電話は出られるようにしておいて」って言われて、そうこうしている間も、ずっと着信とかメールとか来ていたので、「それは、ちょっと、無理です」って言って、休みに入りました。

それから2年くらいした時かな、同じように2度目のうつ状態になっちゃって、その時も2週間休んだんですけど、その時、「サラリーマンっていうのを辞めよう」って決めたんですね。

「うつ」について今思えば、20代のうちに経験しておいてよかった、とは思います。自分の限度もわかったし、どこまでいっちゃうとヤバいってことが分かったのは、良かったです。

――それは大事ですよね。お酒と同じで、どこまでは大丈夫、っていうのを知っておくことは。結構、色々な経験をしていらっしゃるんですね!

■すべてをさらけ出せるパートナーと出会い、自分らしさを取り戻した

これもプライベートの話ですけど、私はセクシャルマイノリティなんですね。仕事では、もうずいぶんと前からオープンにしていて、お客さまや案件に応じてゲイであることを明かした状態で、「ダイバーシティ営業部のマネージャーです」って名刺を持って仕事もしていました。

その時期に、よく社内外の人に「いつから気づいていたんですか?」と訊かれていたんですけど、私の中では「3歳くらいから、男の人も女の人も大好きだなって気づいていました」っていう感じなんですよ。その当時は、いわゆるバイセクシャルだったと思います。

ずっと女の子と付き合っていて、結婚を考えた人も何人かいたんですけど(笑)。でも、10代の頃から「この人と結婚するかも」と思っていた人と一緒にいる時に、ふと「自分は完璧な彼氏を演じているだけなんじゃないか」っていう恐怖心に駆られる瞬間があったんですね。そして、それはちょっとずつ増えていってしまって。

決定打は、20代になってからですけど、ある時、胃腸炎になって、会社早退して病院に行って、ふらふらになったことがあったんです。汚い話ですけど、上からももどしちゃうし、下からもくだしちゃうし・・・。そういう状態で帰宅したら、一人暮らししているアパートの前に彼女が待っていたんですよ。食べ物とか買ってきてくれていて。その姿を見て「ありがとう!」って気持ちよりも先に、「私は、この人の前で、汚い自分は見せられない」と思っちゃったんですね。その瞬間に、「やっぱり、この人とは結婚できないかも」って思って。

そのすぐ後に出会ったのが、今のパートナーで、6年くらい付き合っている男性です。それまで付き合っていた人と決定的に違ったのは、もちろん純粋に「好きだな」っていう気持ちもあったんですけど、「この人の前なら、汚くても、なんでも、自分のすべてを見せられるかも」と思えたことなんですよね。LGBTっていうと性別が云々っていうのもありますけど、私の場合は「すべてさらけ出せる人」が、今のパートナーだったんです。「そういう人が自分にもいるんだ」って分かったのと、「自分らしくいられる」安堵感のような、無邪気に楽しい感覚に20代の半ばで気づきました。そこで自分のすべてがつながったなぁ・・・って。

偶然出会ったパートナーですけど、この出会いと彼の存在にはとても感謝しています。6年間同棲していて、毎日楽しく暮らしています。

――小さい頃から、自分の「あるべき姿」をすごく意識していて、「日本で生まれた男の子」「勉強ができて、優等生」というイメージを、そのままカッチカチに演じてきたことが、いい意味で崩れていったんですかね?

そうですね。でも、もともとはイメージに近い素、なんですよ。ピアノも好きで、優しい性格もある程度持ち合わせていて、勉強も嫌いじゃなかったし。でも、そこにくっついてくる期待値というか、説明に使われる形容詞が自分にはTOO MUCHなことが多くて、「全然、そんなんじゃないのにな」「違うのになー」って思っていた部分が多かったですね。

だから、彼女と一緒に歩いている時に「いい彼氏を演じているんじゃないか」って恐怖心に襲われもした。多分、男って誰でもあると思うんです。「カッコつけたい」っていう見栄とか。でも、これを一生続けていけてしまうんだろうな・・・。いつか子どもができた時に、公園のベンチとかで「どうしてパパ、目の奥が笑っていないの?」って言われたら・・・って想像したら、「それって悲惨! どうしよう!」と思ったんですよね。

私は何かを想像する時に、具体的なシーンがパッと思いつくので、その光景にショックを受けちゃって、セクシャリティの問題の前に「とにかく結婚はできないだろうな」って思って。「子どもができたら、PTAとかでいいお父さんだって思われて、絵に描いたような家庭を築くんだろうな」とか、教室のシーンとか想像しちゃって、身震いして。

――見えちゃったんですね。そういう光景が。

そうですね。うつという原因もありましたけど、なんかそういう予定調和みたいな人生のコースを外れたくて、28歳の時に脱サラして、金髪にして、汚いTシャツで、「いらっしゃ~い」とか言ってるカフェの店員になって、毎日ふわふわやって・・・。そんな日々の中で、「自分らしく生きていけばいいんだ」って実感したんですよね。組織のしがらみもなくて、自分らしく、自分で色々と決めていける自由が嬉しくて。

彼はそれを静かに、でも心強くサポートしてくれる人で、救われますね。私がどん底に落ちようとする時も、落ちた時も、這い上がった時も、そばで見ていてくれたのが、彼です。

なんだかんだで、お店は楽しかったんですが、一方で、貯金もなくなっていっちゃって、「お金はさすがに稼がなきゃ」っていう時に、また会社員に戻ることを選んだんです。それで就職活動をして、今の会社に入ったっていう流れですね。

■自由でありながらも、本質的なところはつかんでいたい

――そうやって、今の会社に入ったわけですけど、どうですか? 自分らしくいられるようになりましたか?

最初の1年は、すごく周りの様子を見ていました。同僚から「猫かぶっていたよね」って笑われますけど、「ちゃんとした会社の、ちゃんとした社員を演じて、営業として信頼を勝ち取らなくちゃ」「自分は今、どう映っているんだろう」みたいなことを考えていました。

でも、1年くらい経つと、少しずつ自分らしさを出して行って、ちょっと毒のあることを笑顔で言ってみたり、ふざけた発言をしてみたりして、周りから笑って許されるかどうかを横目で確認して。呆れる顔をする同僚に「そんな顔しちゃって、でも、僕のこと好きでしょ?」ってにこにこ言っている、みたいな。

そういうユーモアで生きていくっていうスキルは、30年くらいかけて培ってきたので、「言い方を変えれば、言いにくいことも言えるキャラになれるかな」とか、「どうせ、周りから浮くなら、いい感じに浮いてみようかな」とか、そんな感じで、自分らしさを確立していきましたね。不快感を覚えた人もいたと思いますけどね。

――オフィスで過ごす渡辺さんを拝見しましたけど、いい感じに浮いてると思う!(笑) 周りの空気が変わる、っていう言い方でいいのか分かりませんが、自由な感じがします。

そうですね、自由でいたいですね。「本質的なところをつかんでいる自由」でいたいですね。

――本質的なところをつかんでいる自由?

私がへらへら笑っている時間も、営業はテレアポして、飛び込みして、汗かいて稼いでいるわけじゃないですか。新人や若手は一生懸命、手を動かして仕事をしているし。もし私が、一日、へらへらして笑って過ごしているだけだったら、「おい、お前!」って言いたくなっちゃうと思うんですね。「手を必死に動かしている若手よりも、お給料もらってるんでしょ」って否定的に思う人も現れる。それでは組織的におかしなことになっちゃう。だから、どんなに「楽しくやろう!」って雰囲気になっても、職場は働く場所であり、私は働いて貢献して給料をもらっている立場である、っていう本質を絶対に踏み外さないようにしています。

だから、へらへら笑っているけど、実は組織貢献を真面目に考えるし、いざとなったら「私は、この時間を、こういうことのために使っています」っていう説明はできるようにしていますね。感情的、感覚的には楽しく、周りにも「渡辺さん、楽しそう」って思ってもらえて、「私もちょっと手を挙げて、渡辺さんに提案してみようかな」って促せたら、今以上にもっといい会社になるだろうし、新しいアイディアが出てくるだろうし、売上につながって、いいサイクルになっていくと思うんですよね。

「あの人が笑っているなら、なんか大丈夫」みたいな存在っていますよね。私は生まれついて、そういう存在感や顔立ち、オーラを持っているわけじゃないから、そういう存在に憧れていて・・・。それはすごく意識しています。

――そういう力、持っていらっしゃる感じがしますよ。

皆、シャイで真面目だから(笑)。日本人って基本、皆、そうだから、ある程度、テキトーな人がいないと。テキトーだけど、ちゃんと仕事にコミットする、テキトーだけど何か成果に結びつける、っていう人が必要だな、って。そういうのは、30歳を過ぎた頃から思い始めましたね。まだまだですが。

■生きていくコンセプトは「ちょっといい未来をつくろう!」

――今、渡辺さんが自分らしくいられるのは、どういう時ですか?

うーん・・・どうだろう・・・お酒飲んでいる時かな(笑)

――えー、お酒ですか(笑)。

まぁ、冗談ですけど(笑)。誰かと楽しい話をして、未来のことを考えている時は、自分らしいかなって思いますね。

お店をやっていた時に、コンセプトを考えたんです。ランチは「for better afternoon」、ディナーやお酒は「for better tomorrow」。「ちょっといい未来をつくろう!」っていうのがミソで。

お店でランチを提供していた時に気づいたんですけど、ランチって、お客さんが食べに来て帰るまでに、「さ、午後も頑張ろう」って思ってもらえるかどうかがカギなんですよ。

なんとなくお客さんの会話に耳を傾けると、「午前中、叱られた」とか、「午後、大事な会議がある」とか、「憂鬱だ」とか、「もうあの上司とはやってられない」とか、感情が見え隠れしているんですよね。でも、美味しいご飯を食べて、ちょっと休憩すると、エネルギーをチャージできる。私はウェイターなので、食事を提供するのが仕事ですけど、その時に「でも、ま、頑張りましょうよ!」って念じて、気持ちを込めてみる。たまに、「あなた、大変そう! 今、美味しいコーヒー持ってくるので、リフレッシュしてね!」って声をかけてみる。そうすると、お会計の時には、笑顔になっている人が多いんですよね。「色々あるけど、午後も、頑張りましょうね」「いい午後にしましょうね」ってお互いに言い合えたりする。

これが夜になるともっと顕著で、「疲れちゃったんです」「会社辞めようと思うんです」っておっしゃるお客さんが来るんです。ちょっとこれはやばいかな、っていう思い詰めた顔の人とかも来て。私には話を聴くことしかできないから、ゆっくり喋ってもらって、最後に私が「辞めるも選択肢のひとつ、辞めないのも選択肢のひとつ。でも、また一緒に飲みましょうよ!」って伝えると、帰る頃に「明日、ちょっと考えてみます」って少し笑顔になるんですよね。「明日」のこと、「未来」のことを考えられれば大丈夫!って思うんですよね。「頑張らなくてもいいから、また飲も!」とか言って、お会計いただいて、「帰り道、気をつけて」とお見送りするんですけど。必要そうなら、「またね」ってハグとかして。

そういうのが自分らしいなって思ったんです。

――いいですね。少しだけ未来を良くする、って、いいコンセプトですね。

そうですね。20代の最後に、そういうコンセプトが自分の中でできあがって、とっても楽になりましたね。「とりあえず、明日、もう少しよくなったらいいね」とか、「午後、ちょっとだけ楽しかったらいいね」とか。

結構、皆、そういうのをおざなりにしている気がするんです。「大変だー」「面倒くさいなー」とか思う仕事って、毎日、ありますよね。でも、すべて終わって、夕方、「今日は本当に大変だったよー、面倒くさかったよー」って言える同僚がいて、「じゃぁ、ビールをおごってやるよ」なんて言ってくれたら、それってすごいいい人生じゃんって。世の中、そんなに甘くないからこそ、そういうささやかなことを大切にしたらいいんじゃないか、って思うんですよね。

■やりたいことがあって、それをちゃんと言える社会をつくりたい

――未来の話が出ましたけど、渡辺さんご自身は、もう少し長い目で見て、どういう未来を思い描いているんですか?

子どもがやりたいことがあって、それをちゃんと言える社会をつくりたいなって思うんですね。学歴に縛られるんじゃなくて。

うちの母方の親族って、皆、エリート志向なんですね。だから親族が集まって、10代の従兄弟の話とかをする時に、「〇大学は落ちちゃったのよー、でも、△大学は受かったからー」とか話すんですね。私、そういう会話、すっごく嫌いで。

やりたいことがあって、それを言えるようになったらいいというのは、最終的には、子どもだけじゃないんですけど。生きていくために、稼げるようにならなくちゃいけないのはもっともなんですけど、そのために夢を潰させるのはどうなんだ、と。

私みたいに「芸能人になりたい」って思っても、そんなの皆が皆なれるわけでないのは分かっている。ただ、芸能人に限らず、子どもが夢に対して「なれるかもしれない」って思った時に、過去の常識から出てくる「安定して働くためには、大学出ておけ」みたいなバイアスがかかりますよね。

勿論、それはそれで大事だと思うんです。でも、子どもが本心から「ああなりたい」って思った時に、反対意見を言われても、「でも、あんな人もいるじゃん」「あんな事例があるじゃん」っていう前例やロールモデルが見えて、夢を追い続けられる、とことん試してみたいと言える社会があってもいいんじゃないかって思うんですよね。

――すごい。神の視点!

私、ゲイなので、子どもを作ろうって話にはならないですけど、「結婚していたとしても子どもは作りたくないな、この世の中で」って思うんですね。だって、生きていくのは本当に大変! いじめもあるし、差別もあるし、偏見もあるし、景気も悪いし、見通しも悪い。私の目に希望は映らない。

それでも、せっかく生まれてきてくれるんだったら、楽しく生きてほしい。子供たちや若い世代が、世の中を豊かにしてくれる存在となって、もっと増えたらいいなって思うんですよね。

電車の中で一生懸命に、テスト対策なのか、漢字や英単語を覚えている子を見ると、微笑ましく思いますし、「頑張れ」って思うんですけど、それ以上に「大人になったら、何になりたいの?」って聞きたくなっちゃうんですよね。全部が叶うとは思わないけど、夢を見られる社会、やりたいことを見つけられる社会づくりってすごく大事だなって思うんです。

■「自分は自分」と言える社会に近づけたい

私が大学を卒業した時、別に現場で働きたかったわけではないけれど、「職業としては、ホテルマンになりたい」って言った時、「え、いい大学出て、なんでホテルマンなの?」「せっかく学歴あるのに、勿体ないよ」って言う人って結構たくさんいたんですね。「すっげー失礼なこと言うな、こいつ」って睨みつけたく思う人がたくさん(笑)。

その時に、「皆、こういう周りの声に負けちゃうんだろうな」って冷静に思ったんですよね。私も「芸能人になりたい」みたいな想いは、周りの声に負けた部分がありましたけど、横から他人に色々なことを言われても、「自分は自分」「自分がやりたいことはこれ」って、ちゃんと言える社会に現実を近づけられたらいいなって思うんですよね。

それって、LGBTとか、ゲイとかっていう、自分の本当の姿を隠さずにいられないのと同じ状況かもしれませんけどね。

――そのために、何をしたいですか?

ロールモデルをいっぱいインタビューしたいな、とか。だから、「らしく」を成功させたいなって思います!(笑)

あとは、すごく地道ですけど、ちゃんと伝えていくこともやろう、と思って。さっきのエリート志向の親族のケースでは、私は母親にこう言ったんです。「親戚のおじちゃんとかおばちゃんとか、バイアスにまみれている人は嫌いだから、私はそういうのは取っ払っていくからね」って。闘いを挑むというか、挑戦状をたたきつけたんです(笑)。

親戚の女の子が「歴史が好きだから、将来は歴史の学者になりたい」みたいなことを言っていたんですね。でも、その子のお父さんとお母さんは、笑いながら、「まぁまぁ、今はそうは言っていても、まずは大学に入って、就職して」みたいなことを言っていて。

私、その時お酒を飲んでいたんですけど、できる限り、ちゃんと女の子の目をまっすぐに見て、「本当に歴史が好きなんだったら、それをちゃんと究めてね。関連する仕事は世の中に沢山あるし、下手に好きでもない会社に入って働く必要もないんだよ」みたいなことを伝えたんですよね。「続ける方法はいくらでもあるから」「諦める必要はないから」っていうのを、まっすぐ伝えたくて。

具体的に自分に何ができるか、まだわからないですけど、このインタビューサービスの「らしく」もそういうことを発信したり受信したりする場になったら、面白いなって思いますね。

――素敵ですね。そういうのって、大事だと思います。

■それまで見たことのない視点から、世の中を「素敵だな」って思った

お店をやっていた時、お客さんがいなくて暇だったので、2階の窓辺に座って、鼻歌うたいながら町の風景を見下ろしていたんですよ。八百屋さんが走っているとか、信用金庫のおじちゃんが自転車漕いでいるとか、マッサージ屋のおじちゃんがご近所さんに挨拶してるとか。これ、東京の港区の話ですよ。

多分、私が会社員として働いている時には、あまり見ることができていなかった光景がそこにはあったんですよね。大学に通っていた時、就職活動をしていた頃には、そういう世界があるってことを忘れてしまっていた。八百屋さんとかって就職サイトでは紹介されていなかったので(笑)。

でも、「ああいう人がいるから、世の中の経済って回っているんだな」とか、「ああいうお父さんを持っている子どもって、誇らしいだろうな。誇らしくあってほしいな」とか、それまで見たことのない視点から、世の中を「素敵だな」って思ったんです。

「お店で一人ぼっち、お客さんもいなくて、稼ぎもなくて、どうなっちゃうんだろう」っていう不安もありましたし、「うつにもなっちゃって、社会から外れちゃった」みたいな思いもしていたんですけど、昼間の町の風景を見下ろしていた頃は、なんだか心が豊かになっていきましたね。

こういう視点をもっと大切にしなくちゃ、って思いました。

――会社に通う生活が始まると、昼間の風景を見る機会が減りますもんね。たまには。昼間の商店街を歩いてみて、「こういう風に人って生きているんだ」って感じてみるのは、いいですよね。

■「楽しく仕事ができるから、一緒に働きたい」って思われる人になろうと決めた

――ところで、苦手なことって何ですか?

虫。虫は苦手ですね。

――逃げます?

逃げますね。「きゃー」って叫んで逃げますね(笑)。

――私はね、採用業務が苦手でした。嫌いでしたね。もう二度とやりたくないです。

え? なんでですか?(笑)。

――人を値踏みしたくない、っていう感じで。

へー。優しいですね。いい人ですね(笑)。私は採用好きでした。

――どんなところが面白いんでしょうか?

心が通じる瞬間、ですかね。

マンションコンシェルジュ時代、管理職として採用権を持っていたんですね。私が担当していたのは、英語のできるメンバーがそろった、「ちょっとプレミアムなコンシェルジュの集まり」みたいなチームだったので、社内でも他のチームとは違う存在だったと思うんです。

面接では、基本的に仕事観とかプライベートのこととか1時間くらい面談して、最後に「私が上司になるんですけど、やっていけそうですか?」って訊いて、「大丈夫そうです」っていう人を採用する、っていう感じでした。

面接して選ぶのはこちらなんですが、私は私で、選んでもらえるかどうか、心が通じるかどうかを試すのが好きでしたね。その後、自分のチームで働いてもらう、長い付き合いをしてもらう、っていうのが前提でしたけどね。

入社した頃は、土日も休めなかったんです。「はい、なべちゃん。この物件、シフトに穴が開いちゃったから、今週末は、ここにヘルプに行って!」とか言われて。自分の担当しているチームの業務整理や採用もしなくちゃいけなくて、お客さまからの英語でのクレームも担当していて、さらに他のチームの現場の手伝いもやらされて、休みが本当になかったんですよね。それでいて、自分の案件を相談すると、「なべちゃんの案件は、英語力が必要でしょう? 皆、無理なの~」って言われて。「はぁ? 何言ってんだ?」って苛立っていました。

だから、静かに誓ったんです。私は自分のチームをちゃんと成り立たせて、クオリティも高く、お客様からも支持されて、皆が「渡辺さんのチームで働きたい」って思う存在を目指そうって。シフトもちゃんとやりくりできて、皆が思うように休日を充実できるような体制にしよう、って。

それが徐々に叶い始めて、自分が採用して育てたチームで現場が回るようになった頃から、やっと休みが取れる時期ができるようになっていったんですよね。現場もいい感じで。でも、本社からは「なべちゃん、来週、○○マネージャーの現場にヘルプ行ってもらえない?」って言われる。

それが続いた時に、厳かに言ったんです。「私は、自分のチーム、英語物件のことしか、やりません」って。「シフトに穴が開くのは、その担当マネージャーが仕事をしていないってことじゃないですか?」。さらに畳みかけるように、「私は『皆、英語ができないから』ってすべて自分でやらされているのに、他のマネージャーの仕事を手伝わされるのは筋が違うと思います」と。そして、「もし、そのマネージャーの分の給料をいただけるなら、考えますけど」とも言ったと思います。

会社からは「いやいや、会社って、皆で手伝って、補い合ってやっていくものだよ」って言われたんですけど、「でも、皆、英語ができないことを盾にして助けてくれなかったですよね?」って冷静に伝えて、ヘルプはお断りして、さっさと帰りました。定時前にね。

その時、「もう都合よく使われる人にはならない」って決めたんです。「人を使う側になろう」って。そして、どうせ使うなら、使われる立場の人からは「渡辺さんとなら楽しく仕事ができるから、一緒に働きたい」って思われる人になろうって。

■「まあまあ、空気読んで、黙って従っておけよ」と言われるのが苦手

結果、部下やチームメンバーからは慕われて、関係会社やクライアント、お客さんからは支持されていましたけど、社内では嫌われていましたね(笑)。

小さい頃からの、「どこに行っても、周りからちょっと浮いちゃう」性質は、そこでも続いていたと思います。

――きちんと自分の意見を外に出している、ちゃんと主張するっていうことですね。それで浮いてしまったとしても。

言わずにはいられないですね(笑)。だから、苦手なことと言えば、「まあまあ、空気読んで、黙って従っておけよ」って言われることですね。黙るなら、従わない。従わざるを得ないなら、ちゃんと自分の意見と考えは伝えておく。組織人としては色々と波紋を呼ぶけど、自分の中で曲げられない部分です。

ただ・・・、組織人に向いてないなーって悩みが大きくなると、うつっぽくなっちゃうんですけどね。

――(笑)。

皆と一緒に、歩幅を揃えていこう、っていうのは、私はすごく苦手なんです。「皆がやっているんだから、あなたもやりなさい」というのも全然理解できない。例えば、営業部で「皆、テレアポ頑張ろう」ってなっても、私、テレアポすると膝の裏に尋常じゃないくらい汗をかいて、パニックになっちゃうので、「違うところで絶対に貢献しますので、どうかお見逃しください!」「私、訪問行った先では、圧倒的なプレゼンテーションをするので、それに賭けてください!」と、ユーモアを交えながら主張するのが常です。

でも、皆と同じことをやらない、皆と違うことをやる、っていうのは、私の中で、すごく大事な戦略でもあるんです。世の中、皆と同じやり方じゃ現状を打破できないことって、沢山あります。皆が同じやり方をして、「売れないねー」って嘆いている状況は、私にとってナンセンス、でもとってもチャンス。皆がやっていないことを探して、実行してみればいいんですもんね。

どうしたら売れるんだろう、どうしたら相手の心をつかめるんだろう、って毎回ゼロベースで試してみて、今までにないやり方で成功パターンをつかんでいくのは、私の仕事の楽しみ方でもありますね。

――なんか、組織の中のカンフル剤みたいですね。組織が変わる時に必要な人、って感じ。

でも、結構、嫌われるし、本人も周りも大変ですよ(笑)。周りもヒヤヒヤしながら見守ってくれているんだと思います。

■皆がそれぞれに自分にできることを持ち寄って、大きく仕事を楽しんでいきたい

ダイバーシティ営業部のマネージャー時代に、色々な企業の方とお話しをしていたんですが、世の中、皆、「イノベーションだー」「変革だー」って求めているわりには、「皆で一緒にやろう」「横並びが大事」みたいなことも意識しなくちゃいけないと思っている。それを見ていて、「皆で同じことばっかりやっているから、新しさが生まれにくいんだろうな」ということは、ものすごく感じました。

中学校の頃、数学の授業で、勉強をするのが嫌になっちゃったんですね。「だって鈴木さんも、田中さんも、同じ答えが出るはずなら、渡辺が出す必要ってないですよね。待っていれば、頭のいい佐藤さんが私よりも早く、答えを出してくれますもん」みたいに思っていました。「数学とはそういうもんだ」と言われて、「確かにね」って納得したものの、私個人の考えでは、「数学が得意で、好きな人が頑張れば、よろしい!」って信じていて。「私は表現力が問われるリコーダーのテストや歌のテストで頑張るから。そこでは、佐藤さん、休んでいいから」って。

歴史など、記憶力が問われる勉強も苦手でした。「多分、将来は、皆、小さいパソコンを携帯するようになるから、そんな細かいことを覚えなくても大丈夫」って思っていました。年号を覚えられなかったので、今でも、江戸時代が、と言われてもピンとこないんですけど、「私、海外にいたので、日本史、学んでないんですよねー」とか言って笑ってその場を濁して、「とりあえず、ウィキペディア見てキャッチアップするんで、会話、進めてください」って言って、やりきるっていう。

そういうユーモアで生きてきちゃいましたし、これからもそうやって楽しく生きていければいいな、と思いますね。自分らしく、他の人に合わせることなく、でも、チームとして、個性というか、皆がそれぞれに自分にできることを持ち寄って、大きく仕事を楽しめていけたらいいな、って思います。

難しいとは思いますけど、やれるところまで突き進んでいけたら、それは幸せなことだな、って。

渡辺整さんが勤務するのは・・・
株式会社インソース
株式会社インソース 新卒採用ページ
株式会社インソース 中途採用ページ